結果は結果だ、それだけだ。

MBTIの中のINTP、と私は診断(分類?)されたわけだ。

じゃあ同じくINTPに診断された人と仲良くなれるかというと、それは全く別の話なわけで。

 

この手の診断をアテにしない、と最初の記事で私は書いた。

分析のソースとか蓄積された情報とか、結果そのものへの興味はそこそこある。精度が高いと評判の形式があるならば、「あぁここまで作るの大変だっただろうなぁ~」とか「肯定派の中に、思い込みが強かったりすぐ流されるような人がどれくらい混ざっているかなあ」とか、そういうずれたことも考える。

ただ、仮にクラスメイトや知人と同じ結果になったとして、息が合うとは限らない。そうなったら私はちょっと、いや、かなりガッカリすると思う。

アテにしないというか、期待するだけ損失がでかいから真に受けないようにしている、かな?

 

例えば私は『歩きながらスマートフォンをいじる人』が大嫌いだ。私に対して害100%利0%だからだ。外にいるのに公共の場所でパーソナルスペース広げているのが鬱陶しいのもあると思う。

ぶっちゃけ自分の前にいたらぶん殴りたいと思うし、階段で道を塞いでいたら突き落としたいくらいの感情は(少なく見積もっても)ある。

じゃあ何故それをしないのかっていうと『どんなに周囲に迷惑をかけていても、手を出せば私が不利益を被るから』だ。

ニュースで連日そういった『ながら人々』が事故や事件を起こしていても、まだ被害を生んでいなければ法律は私の方に牙を剥く。仮に私が「その悪さする指切り落としちゃ駄目なのかい?」とか口に出そうものなら、実行しなくても世間的に不利になるのはこちらである。

法律は(作った人の時代にスマートフォンが無かったという事情も若干あり)こういうところ残念だなあと日々感じる。寛容とはちょい意味が違うよね、と。

 

例が無駄に長くなってしまった。

 

この『歩きながらスマートフォンをいじる』という行為は、世間的には問題視されているから良くない行為に入るのだと思う。多数派、という意味で。

ではこの良くない行為を敵視している私が、社会ルールとしての批判者なのかというと、違う。自分が納得出来ず嫌だから敵視しているというだけなのだ。

エスカレーターで歩くの良くない問題なんてまさにそれ。

世間の流れは『立ち止まろう、歩くの良くない』だが、私は(今は)歩く。ベルトの摩耗や設備のダメージとか考えても歩く。歩きなら息を止めたまま最後まで着けるから。手すりも持たない。

元々人前で憚らない人種は苦手だったが、近頃はもっと苦手になった。可能な限り列の最後に(というか列が無くなるくらいまで遠くで待って)距離とるけどね。立ち止まり推進運動は肯定も否定もしないけれど、今時分やるのやめろよぉ考えろよぉと嘆いている。

 

つまり、見合っただけの正当性、妥当性を見出せなければ従えない。ながら否定はたまたま善し悪しが一致しただけ。

 

しかし同時に、この良くない行為をやっている人も恐ろしく多い。法律の整備が進んでいないからだ。ちなみにこういう自分で決めずに駄目と言われていないからやっちゃう責任擦り付け人達のことも好きじゃない以下略。

実行者が多いのなら、INTP診断の人も多く含まれるのではないか、と推測出来る。そういう人と仲良く出来るかというと多分無理。「どこかでお茶しましょ」と移動中に手元をいじりだしたら、言葉にはしなくても軽蔑の感情の嵐になることだろう。前を見なさい前を――と。

 

仮にINTPが『この人々は社会的ルールを絶対遵守します』の枠組みであれば、そして私がそういう性格なのであれば、お互い仲良く出来るんだな。

だけど実際の私は『自身が納得する妥当性、正当性、合理性で動く』人間なんだなあ……

意味を理解せずにただルールや手順を強要する人、ルールや手順の意義を考えずに自分勝手に破る人、どっちとも相性悪い人間なんだなあ……

もしどこかの学会が『歩きながらスマートフォンをいじる行為は脳の活性化とマルチタスク化に非常に有効であると証明されました』なんて発表したりして、そして政府が『それ最高! 採用!』なんてことになったとしても、私はどこまでも唾を吐き続けることでしょう。だって私には迷惑しかないからね。

 

結局、同じ枠組みの人間見つけたところで意味が無いのよね。

他人は月だなあ。見えるだけだ。果てしなく遠い。