垂れ流しメモ2

思いつき小ネタ。

これも気が向いたらいつか詳しく書く。



故人の作品に魅力を感じた

故人は作品を増やさない。これまでの作品を気にいることが出来たなら、これから先ガッカリすることもそうないのだなあと。

何十年も追いかけている作家の作品に、ここ数年で多重表現が目立つようになり、ふと思った。

昔はそんな書き方じゃなかったのになあ。


ネットのサイコパス診断って

選択肢出したら診断の価値が薄れないか?

選択肢の中に『サイコパスにとっての当然』が含まれている前提だけれど。選択肢を提示されたら「ああこれだな」ってなるのでは。ブラック度診断とかもそうね。


明晰夢

意識して見ることが可能である。あまり得した気分にはならない。

ファイヤァァと唱えたら指先からプスプスと煙が出た。走ろうと思ったら重力が弱く物理法則もおかしくほとんど前に進めない。空を飛ぼうとしたらちょびっと足が地から離れてすぐ落ちてそれが限界だった。

私だけなのか? こういう残念な明晰夢は。

垂れ流しメモ

題だけ集めた感じ。


•空気が読めない人と周囲

ずれた発言、失言をした当人が無自覚かというと、意外とそうでもない(かもしれない)という話。

•幼児は賢い

フィクションの幼児は考えなさすぎて嘘くさい。

普通科の人間が想像する工業高校のテンプレくらい。


•記憶と想像の隔たり

上の続き。胎児は難しいにしても1歳くらいからの記憶はあるもの。と思っていたのだが。


•ピアノ教室

何週間にも渡って1曲合格もらうよりも、和音当てやテクニック指南にレッスン時間を当てたかったなあという、実体験からくる今更の感想。


•誤用の話

化学系統の知識が広まっていない世界において、専門家が「硫黄の臭いです」と説明した。硫黄の単語すら知られていない世界で、伝達性を優先して表現を曲げる意味は無い。これは作者の知識不足且つ世界観の構築の甘さ故だろうが、現代日本だと有用な誤用かもしれない。好きにはなれないが。



いつかの機会で細かく書けたらいいなあ。

結果は結果だ、それだけだ。

MBTIの中のINTP、と私は診断(分類?)されたわけだ。

じゃあ同じくINTPに診断された人と仲良くなれるかというと、それは全く別の話なわけで。

 

この手の診断をアテにしない、と最初の記事で私は書いた。

分析のソースとか蓄積された情報とか、結果そのものへの興味はそこそこある。精度が高いと評判の形式があるならば、「あぁここまで作るの大変だっただろうなぁ~」とか「肯定派の中に、思い込みが強かったりすぐ流されるような人がどれくらい混ざっているかなあ」とか、そういうずれたことも考える。

ただ、仮にクラスメイトや知人と同じ結果になったとして、息が合うとは限らない。そうなったら私はちょっと、いや、かなりガッカリすると思う。

アテにしないというか、期待するだけ損失がでかいから真に受けないようにしている、かな?

 

例えば私は『歩きながらスマートフォンをいじる人』が大嫌いだ。私に対して害100%利0%だからだ。外にいるのに公共の場所でパーソナルスペース広げているのが鬱陶しいのもあると思う。

ぶっちゃけ自分の前にいたらぶん殴りたいと思うし、階段で道を塞いでいたら突き落としたいくらいの感情は(少なく見積もっても)ある。

じゃあ何故それをしないのかっていうと『どんなに周囲に迷惑をかけていても、手を出せば私が不利益を被るから』だ。

ニュースで連日そういった『ながら人々』が事故や事件を起こしていても、まだ被害を生んでいなければ法律は私の方に牙を剥く。仮に私が「その悪さする指切り落としちゃ駄目なのかい?」とか口に出そうものなら、実行しなくても世間的に不利になるのはこちらである。

法律は(作った人の時代にスマートフォンが無かったという事情も若干あり)こういうところ残念だなあと日々感じる。寛容とはちょい意味が違うよね、と。

 

例が無駄に長くなってしまった。

 

この『歩きながらスマートフォンをいじる』という行為は、世間的には問題視されているから良くない行為に入るのだと思う。多数派、という意味で。

ではこの良くない行為を敵視している私が、社会ルールとしての批判者なのかというと、違う。自分が納得出来ず嫌だから敵視しているというだけなのだ。

エスカレーターで歩くの良くない問題なんてまさにそれ。

世間の流れは『立ち止まろう、歩くの良くない』だが、私は(今は)歩く。ベルトの摩耗や設備のダメージとか考えても歩く。歩きなら息を止めたまま最後まで着けるから。手すりも持たない。

元々人前で憚らない人種は苦手だったが、近頃はもっと苦手になった。可能な限り列の最後に(というか列が無くなるくらいまで遠くで待って)距離とるけどね。立ち止まり推進運動は肯定も否定もしないけれど、今時分やるのやめろよぉ考えろよぉと嘆いている。

 

つまり、見合っただけの正当性、妥当性を見出せなければ従えない。ながら否定はたまたま善し悪しが一致しただけ。

 

しかし同時に、この良くない行為をやっている人も恐ろしく多い。法律の整備が進んでいないからだ。ちなみにこういう自分で決めずに駄目と言われていないからやっちゃう責任擦り付け人達のことも好きじゃない以下略。

実行者が多いのなら、INTP診断の人も多く含まれるのではないか、と推測出来る。そういう人と仲良く出来るかというと多分無理。「どこかでお茶しましょ」と移動中に手元をいじりだしたら、言葉にはしなくても軽蔑の感情の嵐になることだろう。前を見なさい前を――と。

 

仮にINTPが『この人々は社会的ルールを絶対遵守します』の枠組みであれば、そして私がそういう性格なのであれば、お互い仲良く出来るんだな。

だけど実際の私は『自身が納得する妥当性、正当性、合理性で動く』人間なんだなあ……

意味を理解せずにただルールや手順を強要する人、ルールや手順の意義を考えずに自分勝手に破る人、どっちとも相性悪い人間なんだなあ……

もしどこかの学会が『歩きながらスマートフォンをいじる行為は脳の活性化とマルチタスク化に非常に有効であると証明されました』なんて発表したりして、そして政府が『それ最高! 採用!』なんてことになったとしても、私はどこまでも唾を吐き続けることでしょう。だって私には迷惑しかないからね。

 

結局、同じ枠組みの人間見つけたところで意味が無いのよね。

他人は月だなあ。見えるだけだ。果てしなく遠い。

色盲色弱の世界

認識出来る色の数が少ない、部分的色盲色弱)の人にマリオの塗り絵をしてもらったところ。

彼らの描くマリオは緑や紫で毒々しく色づけされ、その他大勢の人々を驚愕させたという。

ああ、これが彼らの見ている世界なのか、と。


えぇ、本当に?

いやそれってどうなのかなーと。


という風に懐疑的なスタンスなのは、自体験によるところが大きい。

私自身は認識能力高めらしく、色の認識テストならほぼ満点を取れる。ただ、偏頭痛の発作が起きると度々世界から色が消える。

それは白黒テレビだったり、カラーセロファンの赤で目隠しされたようだったり、淡く光り輝くこともある。そういう状態が数十分続く。

色盲色弱、程度の差も当然あり、イコールとは言えないが、それでも真っ赤な世界が色の少ない世界ならば。あのマリオが彼らの世界の再現かというと疑問なのだ。


セロファンの世界は赤と黒が広がる。輪郭が黒い。それ以外が赤い。濃い色はどんどん黒に近くなる。でも赤い。

元の色を知っている。元が何だったのか、その色を。でも、赤と黒の細かい変化だけだと明るさの近い色が区別出来ない。

もしも赤セロファン世界の私が128色クレヨンを受け取っても、目の前の風景すらまともに彩色出来ないと思う。同程度の明るさをもった色が見分けられないからだ。

実際に見えているのが若干黒ずんだ赤だとしても、群青や深緑を取るかもしれない。あれは薄い赤、そのつもりで取ったら檸檬色、或いは浅葱色かもしれない。黒い視界を再現する為に掴んだクレヨンは本当に黒かな?


つまり、そういう疑問だ。

塗る側は近いそれらしい色合いを選んでいるだけで、当人の認識とすら合致しない色の可能性もある。

勿論、赤→緑、といった風に、特定の色から色へ確定で認識がずれているとかなら、まあ、世界を再現してくれているかもなーと思えなくもない。


マリーの部屋について考察したくなる。

思考実験の本筋ではないけれど、モノクロしか知らないマリーの目が外の世界を見たとき、色を認識する機能そのものは生きているのだろうか?


卵と鶏と私

あるとき、鶏が先か卵が先か議論になった。
猿から人は生まれない。だから鶏が先だ。
猿は育っても人にはならない。だから卵が先だ。
こういうやり取りを昼休みが終わるまでぐるぐると続けた。

たまに宇宙の果ての果てについても語りあった。
宇宙の最果ての向こうには何がある?
過去か未来か、異世界か壁か、無か。
そもそも宇宙は存在するのか?
現に隕石がたまに降るじゃろ。衛星だって回っている。
ああそうかでも見てみないことにはなあ。

全部中学生の頃の話である。

今でも答えが届きそうで届かない、ぐるぐるとした議論が好きだ。
無駄は好きじゃない。
答えに近付くつもりでいて、近付いているか確かめるのが困難な、そういうパチパチと弾ける瞬間の引き伸ばしがたまらない。
今は、そういうのに付き合ってくれる知り合いが周囲にいない為、脳内会議で済ませているが。

数年前、ちょっとした議論の主張で食い違いがあった。
そこから数時間に渡る言い争いが始まった。
最初は私自身、自分の主張に正当性を感じていた。
しかしどういうことだ、少しずつ少しずつ相手の意見も心地よくなってきたではないか。
自分の意見を展開しながら、相手の意見について精査する。正直自分第一なところがあって、へし折る気で挑んでいた為相手の意見はぶった斬る前提だった。
相手の意見を聞く気がないのにもかかわらず、自分の中では色々な可能性が溢れ出る。持論に穴を見つける。相手の論理の良きところもみえてくる。
しかし折れない。まだまだ対立の姿勢は崩さない。
そうして、気付いた。

「終わらない議論は、楽しい」


何て迷惑な奴だ(´•ω•`)
ちなみに最後は相手が折れた。悲しき勝利である。

INTPとは

多様性とは何ぞやを学ぶキャンペーンに参加しなければならなくなった。

インクルージョンほにゃららという単語もついてきた。

そんでもって『まずは自分を知ることだ』とあれよあれよと質問に答えていったらINTPだと表示された。

それが私だ。


自分で「私INTPなのよねーオホホ」と言う分には問題無い。

しかし他人から「君INTPっぽいね」とか「INTPだから◯◯なんだね」とか言われるとあまりよろしくない。

言われたこともないし、診断結果を周囲に広めていないから、そもそも誰も知らないことだが。

では、何故よろしくないのか?


変わり者の評価はずっと昔からで、それ故かよくモノマネの標的にされた。

やる側は一度きりでもやられる側は積み重ねて飽き飽きだ。実に鬱陶しい。

ついでにモノマネというものは、対象を馬鹿にしたり周囲との差をつつくことが多い。

カッコいい部分取り上げてくれることは滅多にない。

いや中居正広氏の野球選手モノマネのような、再現度を追求したものもあるけれどね。

「B型らしいね」が日本だとワガママ自己中心的の用途にもなる、何気ない感想でも言われる側は数十回と繰り返されてきた嫌味、みたいな?


いや違うなあ。

これじゃないなあ。


「自分ど田舎◯◯県出身なんですよ」はOKでも他人からの「◯◯県出身? ど田舎じゃん!」は不快みたいな?

どちらかというとこちらだろうか。


人間たったの16通りなんてことはない。

多分。

そんでもって、自分では「ああこれ当てはまる。でもこっちは違う」が分かる。

自己分析の自分と16パターンのテンプレに生じた差異を理解した上で自分を概ねINTPとして扱う。

それが他人には出来ない。

田舎(北の方はちょっと賑わっているけどそれ以外は田舎)を余所者は理解していない。

和訳された不思議の国のアリスに感じるガッカリした気持ちや、原文未読者が「不思議の国のアリス好き」と宣言していたときの違和感?

いや、何かを好きになるのは良いことだ。

私と見ているものが違うだけで。


脱線した。


そもそも私は性格診断の類をアテにしない。

以前も別の分析を受けたが、「数十パターンのどれかに『ほとんどの人が』当てはまります」のどれにも属さなかった。

当然解説もなかった。

分かったことは、自分がただのアブノーマルな変人であるという知っていることだけである。

無知の知? 知の知。

やはり曖昧な知ったかを嫌悪しているのだろうか?


だが、「あなたのような思考の持ち主は世間だとこういう扱いですよ」の参考程度にはなりそうである。

今回は幸いにも割合ナカーマが大勢いる分類に飛び込めたらしい。

仲間求めてないけど!

何でも、先人達の偉大な統計によると、女性の1%くらいは私がいるらしい。

正直嘘やろと思うがきっとどこぞの隠れ里にでも大量発生しているに違いない。


INTPとは論理学者で合理主義のゴリゴリマッチョマンらしい。

最近の口癖が「私合理主義っぽいんですよ」だったからこの辺はストライク。

小学校卒業のときクラスの未来予想図で学者扱いされていたが、クラスメイトは私をどんな目で見ていたのだろうか。


ぶっちゃけINTPが何の略かすらあまり興味がないが、しばらくの間、自分という『何となくINTP』を通してINTPの生態を気持ち調査してみることにした。

他性格の分析やINTPそのものの深掘りはしない。

どうせ他の人が巨大な穴ボコをえっちらこさえてくれている。

私は、私を通して外界と繋がってみようと思う。

少しの間だけね。